3月17日、午後11時。謙也くんからLINEが来た。”もうすぐ帰る”そのシンプルな6文字に、私の心は自然と弾む。10年以上前になるが、中学時代スピードスターと呼ばれていた彼は、未だにLINEの反応も速く、そこからの行動も早い。ほら。LINEのメッセージをもらってからまだ3分と経っていないのに、ガチャと鍵の開く音が聞こえて玄関へ急ぐ。
「おかえり謙也くん」
「おん。ただいま。思ってたより遅なってもうた。すまん」
「ううん全然。久しぶりに中学のテニス部のみんなが集まってお祝いしてくれたんやろ?」
「ああ。ちょうど財前が出張で大阪に戻ってきてるっちゅうのもあって。『謙也さんの誕生日のために帰ってきたみたいでほんま嫌っすわ』とか言うとったけどな。相変わらず可愛げのない奴や」
「ふふ。明日も仕事あるのに謙也くんの誕生日っちゅう理由で集まってくれるなんて十分可愛い後輩やん。他のみんなも来てた?白石くんとか」
「まあな。ユウジだけはこれから仕事あるー言うて顔だけ出してすぐ抜けてったけど」
「ユウジくん、芸人になってから忙しそうやもんなあ。最近テレビ露出増えてきてるし」
そんな会話をしながら、片手でハンガーを用意して、もう片方の手で謙也くんの脱いだジャケットを受け取る。実は、謙也くんの服をこうやってハンガーにかけるときは、ちょっと新妻みたいだなんて思ってテンションが上がる。おおきに、と素直にお礼を言う謙也くんはきっと私のこんな心のうちを知らないのだろう。
謙也くんと私が知り合ったきっかけは、中3で同じクラスになったからだ。ただ、謙也くんと私がつきあいはじめたのは大学4年の冬だ。よくある話だけれど、大学の卒業前に中学のクラス会をやろうとのことで、久しぶりに謙也くんに会った。医学部に進んで4年目だった彼はなぜか当時恋人がいなかった。そしてそのクラス会では中学当時の恋愛話に花が咲いたのだ。
「そういえば謙也、お前中3のとき支倉のこと好きやったやろ」
「ちょ、ま!自分、なんでそんなこと本人の前で言うねん。恥ずかしいやん!」
そう抗議しながら年甲斐もなく耳まで赤くなる謙也くんに、私までなんとなく頬が熱くなった気がした。15歳の頃の私もこっそり謙也くんに片想いをしていたのだ。あの時、私達は両想いやったんや。そんなこんなで囃したてられた謙也くんと私は強制的に隣の席にされ、そして、その日にLINEを交換して、何度かデートを繰り返し、お付き合いすることとなった。
あれからもう5年。今日は謙也くんの27歳の誕生日。白衣姿もだいぶ板についてきた謙也くんは大阪市内のマンションに一人暮らしをしていて、私はその部屋の合鍵を持っている。お互いの両親には既に紹介済みで、将来のこともちゃんと見据えたつきあいをしているつもりだ。
謙也くんのジャケットからはお酒と煙草の入り混じった匂いがする。きっと楽しい夜を過ごしてきたはずだし、私は明日は有給だけど謙也くんは明日も仕事だし、私からの『誕生日おめでとう』は今朝もう伝えてあるから、今日はもう寝るだけだ。
「謙也くん、お風呂どうする? 今晩入るならわかすし、明日シャワーで良いんやったらわかさへんけど」
「あー、明日でええわ」
「そう?それなら早よ寝てな。明日も仕事やろ?家事は私明日休みやから全部やれるし」
「おおきに。せやけど……なあ、寝る前にちょっとええか?」
そう言うと謙也くんはやけにそわそわしだした。もしかして誕生日プレゼントを待っているとか?それを考えると私のほうが悪い意味でそわそわする。実は、謙也くんへの誕生日プレゼントは何も用意していない。なぜって、本人が『今年は誕生日プレゼントとかいらんから、その代わり17日の夜、俺んちおって』と言ってきたからだ。その約束を果たし、私は昨日から今日を通り越し明日まで、謙也くんの家に2泊3日のステイをする予定だ。もしかしてあの台詞は遠慮して言っていただけであって、本当は何かちゃんとしたプレゼントを待ってたんやろか。そう思ったら謙也くんの言葉を素直に受け止めて何も準備しなかったことについて後悔の念が押し寄せる。
「ごめん、謙也くん、私謙也くんの言葉真に受けて、プレゼント的なものは何も用意してへん」
「え? あ、そういうことやないで?! プレゼント待ってるとかそんなんと違うから安心しいや。あ、でもある意味そういう意味なんか?……あー自分でも何言うてるかわからへんわ」
私の台詞を受けてさらに混乱し始めた謙也くんはいつもと様子が違う。謙也くんは大きな深呼吸をして、真剣な目をして、おもむろに口を開いた。謙也くんが紡ぐ次の言葉が気になって、思わず唾をのむ。
「麻衣。知っとると思うけど、俺は、お前のことが、好きや」
――何を言うかと思ったら。拍子抜けして「うん、ありがとう。私も謙也くんのこと好きやで」と軽く返すと、謙也くんは「あーもう、そういう軽いのとちゃう!」と首を振った。どうしたんだろう、まさかプロポーズをするわけでもあるまいし。ただ、目の前で百面相する謙也くんを見ているのは面白い。
すると、謙也くんは思いついたようにジーンズのポケットに手を突っ込んで、何かを取り出した。そしてもう片方の手で私の左手をとらえると、そのまま薬指にそれははめられた。
「えっと……これは……?」
「……俺からのプレゼントや」
キラキラと光るダイヤが綺麗なそれは、どこからどう見ても、エンゲージリングだ。彼にしてはセンスが良いと思ってよく見てみたら、前に私が彼の部屋で雑誌を見ながら「このリングかわいいなあ」と言っていたものと一緒だった。そのときの彼は適当な相槌を打っていただけだったのに。
「今日はプレゼントはいらん言うたけど……プレゼントやなくて、俺は、麻衣がほしい。もうお互い27やし、そろそろちゃんと将来のこと真剣に考えたいねん」
それは、その、つまり――驚きすぎて、言葉に詰まる。
「俺と、結婚してください」
つい1分ほど前まで、まさかプロポーズするわけでもあるまいし、そわそわしてどないしたんやろと思っていたけれど、本当にプロポーズだった。そんな驚きと、突然の状況が飲み込めない戸惑いと、素直な嬉しさで、頭が真っ白になった瞬間に、視界が急にぼけた。あれ、私、泣いとるやん。そう自覚した途端、涙が頬を伝って止まらなくなった。
「……あの、麻衣さん、返事は………?」
何も言わない私に謙也くんは戸惑ったような声で問う。そんな、返事なんて一択しかない。
はい、と首を縦に振って声に出したつもりが、あまり上手く音にできなかった。ただ、彼はそんな私の声にならない声をちゃんと捉えると、ほっとしたようにそっと私を抱きしめた。
「……っあー、断られるんかと思って一瞬焦ったわ」
「ふふ、お医者さんのくせに謙也くんはアホやなあ。断るわけないやん」
「アホって言いなや」
「ごめん。せやけど、そういう謙也くんのちょっとアホなところも、中学のときからずっと好きやねん」
それ以外にも、友達思いなところ、やさしいところ、少し慌ててしまうところ、素直なところ――すべてひっくるめて好きなのだ。
今年は誕生日プレゼントと呼べる物は何も用意していないけれど、その代わり、これから先の私の未来を、全部彼に捧げよう。
ひっそりと心にそう誓って抱きしめ返すと、「俺も麻衣のその若干鈍いところが、中学のときからずっと好きやで」と予想外の台詞が飛んできたので、怒ったふりをして軽く彼の足の小指を踏んでやった。
Fin.