朝焼けの裾を引っぱって

 4時に目覚ましをかけて、ごはんも食べずに急いで準備をして玄関を飛び出す。
 すると、そこにはすでに、朝焼けを背に、制服姿で自転車のサドルに座っている蔵がいた。

「おはようさん、麻衣」
「蔵、おはよう」
「ほな、さっそく行こか。後ろ乗りや」
「え、でも2ケツ、注意されないかな」
「さすがにこない朝早かったら大丈夫やろ」
「へへ、それもそうだよね」
「ほな決まりやな」

 蔵はいつもの笑顔で、後ろの荷台をぽんぽん、と片手で叩いた。私はそこに横向きに腰掛けるけれど、この感覚は、まだ慣れない。いつもは蔵が徒歩通学の私に合わせて自転車を押して歩いてくれることが多かったから、蔵の自転車の後ろに乗るのはまだ片手で数えられるくらいしかないのだ。

「麻衣、もっとちゃんとつかまらんと、落ちるで」
「で、でも……!」

 これ以上ちゃんとつかまるっていったら、蔵に抱きつくみたいになってしまう。
 そんな私の内心に気づいたのか、クスッと蔵は笑う。

「何や、恥ずかしいん? 大丈夫や。今ならめっちゃ朝早いし誰も見てへんて」
「そ、そうだよね……!」
「うん。せやから、ほら、早よ、もっとぎゅーってして?」
「もう、なんでわざわざそういう恥ずかしくなるような言い方するかな……!」
「うーん、意地悪したいから?」

 そういう蔵はもう前を向いてしまっていてその表情は見えないけれど、絶対笑っているに決まっている。蔵の腰に恥をしのんでぎゅっと抱きつくと、蔵の背中にぴったりついた私の右耳に、ほな行くで、という蔵の声の振動が伝わった。

 途中でコンビニに寄って朝ごはんを買って、私達はやっと学校にたどりついた。しかし、まだ人の気配は全くない。自転車置き場に自転車を置いて、私達が向かったのは、テニス部の部室。学ランのポケットから取り出した部室の鍵で、蔵はその扉を慣れた手つきで開ける。

「……なんか、こんな朝早くに部室にいるのも不思議な気持ちだね」

 部室の壁にかかっている時計が示す時間は、午前5時半。朝練に来る部員が集まりはじめる時間まではあと1時間半といったところだ。

「せやな。今から1時間半くらいは、この部室、俺達の貸切やで?」
「そう考えるとなんかすごいよね。早起きは三文の得ってこういうことなのかな」

 そう、きょろきょろといつもと何も変わらない部室を見回していた私は油断していた。
 突然、後ろからぎゅう、と抱きしめられる感覚。びっくりして思わず声が出る。

「ひゃ、蔵、突然どうしたの?!」
「――あかん?」
「え、いや、その、だめでは……ないけど……」

 恥ずかしいです。とまでは声に出せなかった。体温が上昇していくのが自分でもよくわかる。

「さっきチャリ乗ってるときから、麻衣のことずっとこうしたい思っててん」

 今度は正面を向かされたかと思えば、背中が制服越しにひやりとしたものに当たった。ロッカーだ。目の前には蔵、背にはロッカー。そのふたつに挟まれて逃げ場を失った私は、蔵の顔を見上げるしかなかった。今の蔵は、さっきみたいに笑ってはいなくて、その代わり、とても真面目な顔をしている。くるくる変わる彼の表情はどれも魅力的で、彼が新しい表情を見せるたびに、私の心臓は跳ねる。

「麻衣、今日はほんまにありがとうな」
「え?」
「――俺、麻衣が俺の誕生日、誰よりも先に『おめでとう』って言いたいって言うてくれて、そしてさらにはホンマにこない早起きしてくれて、めっちゃ嬉しかった」
「そ、そんなのこちらこそありがとうだよ!私も、蔵がまさか私のわがまま聞いてくれるなんて思ってなかったから、すごく嬉しい」

 蔵の誕生日を誰よりも先に祝いたい。そんな私のわがままのために蔵が提案してくれたのが、今日のこの早起きだった。蔵は、女の子にも人気があるし、テニス部からの人望も厚い。だから、彼の誕生日当日は、彼にプレゼントを渡したい女の子たちがひっきりなしに彼のところへ押しかけてくるであろうことも、放課後はきっと部活のメンバーみんなで遊ぶことになるであろうことも、簡単に予測できた。私達がふたりきりで誰にも邪魔されない時間を過ごせるのは、朝しかないのだ。
 蔵の左手が私の右頬に触れたかと思うとそのまま首筋へ降りてくる。包帯のざらついた感触がくすぐったくて少し身体が震えた。そんな私を見て、蔵は、すごくすごく、愛おしそうに笑う。その笑顔が、私に向けられているものなんだと思うと、胸の奥がきゅうっとする。

「なぁ、麻衣、聞かせて?」
「へ……」
「誰よりも先に、言うんやなかったんか?」
「あ……!」
「はは、忘れとったんかいな」
「もう、忘れてなんかないよ! 蔵がこういうことするから動揺しちゃっただけで……!」
「へえ、動揺してるんや?」

 ――墓穴を掘ってしまった。

「……いじわる」
「ええやん。麻衣、めっちゃ可愛い」
「また、そういう調子のいいことを……」
「ホンマやって。このまま襲ってしまいたいくらいや」
「な、何言ってんの……!!」
「はは。さすがに朝から部室でそないなことせえへんけどな」

 そんな冗談を言っている蔵と、ふと目が合って、しばしの沈黙。
 伝えるなら、きっと今なのだ。私は深呼吸をして、蔵を見つめ直す。

「――蔵、」
「ん?」
「……お誕生日、おめでとう」
「ありがとう。俺も麻衣からいちばん最初に祝われて嬉しいわ」
「えへへ、そう言ってもらえると光栄です。それからもうひとつ言わせてね」
「もうひとつ?」
「うん。ね、蔵、――生まれてきてくれて、ありがとう」

 ほんとに、ほんとに、だいすき。
 思わず背伸びをしてその頬にキスをすると、蔵は少し困ったような顔をする。

「麻衣、」
「あ、あの、ごめんね、嫌だ――」
「……誘ったんは麻衣やで?」

 気づけば、蔵のくちびるが、私のそれに重なっていた。いつもの蔵らしくない、ちょっと強引で性急なキスに、一気に心拍数が上がる。ちゅ。ちゅ。ちゅ。そんな部室にはそぐわない音が響いて、耳も、頬も、熱くなる。全身の血が、熱い。
 さっきは『朝から部室でそないなことせえへん』って言ってたのに。
 やっとの思いで抗議をすると、蔵は、「キスしかせえへんから、今は黙っとって」と、再び私のくちびるをふさいだから、私はそのまま甘い甘いキスを受け入れることにした。

Fin.
2010.4.14
title by afaik