最終話 3年目・9月

 9月は、上期の終わりの月だ。私たち数字を背負う営業職にとっては、最後の追い込みで肉体的にも精神的にもキツい月である。
 そんな9月も半ばを過ぎた頃、偶然、3階の渉外課のフロアで忍足さんが支店長に呼び出されているのを見かけた。支店長が忍足さんに何の用なんだろう、一瞬頭にクエスチョンマークが浮かんだが、すぐにピンと来た。そして、その直感が当たらなければいいのに、と願った。

 2階の支店長室から3階の渉外課へ戻ろうとする忍足さんと、お客様先へ出かけようと階段を降りていた私は、偶然踊り場ですれ違った。

「お疲れ様です」

 誰とすれ違う時も挨拶は基本だ。いつもどおり挨拶をして頭を下げると、忍足さんはいつもと違う声色で私の苗字を紡ぐ。

「──支倉」
「? はい、何でしょう?」
「今日、夜、予定入っとる?」
「いえ、普通に家帰るだけです」
「せやったら、今晩時間くれへん?話あんねん」

 あ、もしかして──。
 私の直感は当たってしまったかもしれない。

 いつものように融資課長が支店の鍵を閉めて、私たちはそれぞれ帰路に着く。他の行員たちが100メートル以上先を歩いていてこちらを振り向かないのを確認して、忍足さんと私は駅とは違う方向へ向かって歩き出した。どこへ向かっているのかは私もわからない。忍足さんが歩を進める方向へ着いていくと、そこは街中の、少し高台にある小さな公園だった。

「すまんな、歩かせてもうて」
「いえ、大丈夫です。で、話って何ですか?」

 なるべく無邪気に聞いたつもりだった。でも、忍足さんが次に紡ぐ言葉を聞きたくない気もした。忍足さんは少し黙って、でも何か覚悟を決めたような表情をして、言った。

「今月末で異動になってん」

 やっぱり、そうだったんだ。
 心の準備はしていたはずだった。

「……って、支倉?」
「あ、あの、すみません…ごめんなさい……」

 突然わけがわからないくらい涙があふれてきて、ぽろぽろと頬を伝って落ちていく。銀行員の異動は当然で、しかも全国転勤も当然だ。優秀な人ほど早くいろんなところに異動になっていくし。忍足さんもきっとご栄転だ。喜ばなきゃいけないのに。おめでとうって言わなきゃいけないのに。

「……どこへ行かれるんですか」
「本部。丸の内。東京や。引っ越しもせえへん」
「なんだ、東京なんですね。良かった。どんな遠くに行っちゃうのかと思いました。本部、すごいですね。ご栄転おめでとうございます」

 ──また大阪とか、どこか遠いところに行ってしまうのかと思った。今度は安堵で涙が出てくる。きっと突然後輩がぽろぽろ泣き出して、忍足さんは困っているだろう。なのに一度出た涙は止まらなかった。
 と、不意に視界が暗くなって、全身を包む温もりを感じる。忍足さんに抱き寄せられていた。私の顔は、忍足さんの胸のあたりにうずまっている。

「……ほんまに自分、どんだけ可愛いねん」
「え」
「泣いてる理由、聞かせてや」
「……っ、だって、忍足さんが遠くに行っちゃうと思ったらさびしくて」
「何で俺が遠くに行ったらさびしいと思ったん」

 そう聞く忍足さんの声はいつになく優しくて、ドキドキする。忍足さんの抱き締める腕が少し緩まり、私は忍足さんの顔を見上げる。

「……忍足さんのことが、好、」
「──好きや」

 好きだから、と言いかけたら、なんと忍足さんからの告白でそれは遮られた。

「最初はこんな俺のこと頼りにしてくれて、可愛い後輩やな思っとった。せやけど、失恋した時とか具合悪い時とか弱ってるとこ見とったら、俺が元気にさせたらな思て──気づいたら可愛い後輩以上の気持ちになってもうてん。ただ、支店内での恋愛はご法度やし、今まで伝えられへんかった。やっと言えたわ」

 忍足さんが同じ気持ちでいてくれたことが嬉しい。今度は嬉し涙が出てくる。なんだか泣いてばかりだ。

「私も、最初は忍足さんのこと、先輩としてすごく尊敬してました。でも、それこそ私のダメな時も忍足さんは話を聞いてくれたり助けてくれたりして、気づいたら尊敬してる先輩以上の気持ちになってました」

 涙声でかっこわるいけれど、私も私で想いを伝えると、忍足さんは黙って私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。

「でもほんま本部でよかったわ。地方とか海外とか言われたら遠距離キツいわと思ってな」
「──忍足さんとだったら遠距離でも頑張りますよ。でも東京で本当によかったです。お休みの日は会えますよね?」
「……支倉、自分さっきからいちいち言うことが可愛いすぎんねん」

 忍足さんは耳まで真っ赤になっている。もう27歳だというのに、忍足さんこそ可愛らしいではないか。忍足さんは一度その腕から私を解放すると、改まって言った。

「──支倉麻衣さん。俺と付き合ってください」
「はい、よろしくお願いします」

 そして、その日から、私たちは支店の先輩後輩から、恋人同士という関係性に変わった。

 金曜日の夜、帰り道で、融資課の白石さんに話しかけられる。

「1週間お疲れさん」
「白石さんお疲れ様です」
「いっしょに帰ろか?」

 白石さんとは最寄駅がいっしょだ。でも今日は……。まごまごしている私を見て、白石さんは何かを察したような顔をしてニヤリと笑う。

「そーか。支倉さんは今日は中央線か」
「いや、あの、その」
「親友の恋愛が上手くいっとるようで俺は幸せや」

 そういう白石さんの左手の薬指にはシンプルな結婚指輪が光っている。白石さんこそ幸せ真っ只中のくせに。白石さんが婚約者さんと入籍したというニュースで、支店中の女性がショックを受けていたけれど。

 忍足さん改め謙也さんと付き合い始めてから1ヶ月。本部に異動してから謙也さんは毎日残業で帰りが遅いので、事前にもらっていた謙也さんの部屋の合鍵を使って、約1年ぶりに彼の部屋に入った。毎週末、外でデートはしていたけれど、こんなふうにおうちデートをするのは実は初めてだ。「好きに使ってええよ」と言われているキッチンを借りて、簡単な夕ごはんを作り、謙也さんの帰りを待つ。玄関のドアが開いたのは21時過ぎだった。

「すまん、待たせたやろ」
「大丈夫です。さっきごはんできました!大したもの作ってないですけど……」
「めっちゃ嬉しいわ。最近忙しくて自炊できてへんかったし」
「じゃ、さっそく食べましょ?謙也さん、手洗ってきてください」

 ジャケットと外したネクタイを預りながらそう言うと、謙也さんは洗面所へ向かい、しっかりと手洗いうがいをしていた。年上のはずなのに、こういう子どもみたいに素直なところが可愛くて、きゅんとしてしまう。戻ってきた謙也さんと『いただきます』をして、2人で夕ごはんを食べる。なんか新婚さんみたいだな、なんて思ったら頰が緩んだ。

「はぁ、めっちゃ美味かったわ。ごちそうさん」
「えっ、相変わらず食べるの速いですね…!」
「浪速のスピードスターやからな。麻衣はゆっくり食べや」

 そして2人ともごはんを食べ終わって、謙也さんはお風呂の準備をして、私はキッチンで洗い物をしていた。先にお風呂の準備を終えた謙也さんが「麻衣」と後ろから声をかける。

「なんですか?って、え」
「──洗い物まだ終わらへん?」

 そのまま謙也さんは私を後ろから抱きしめて、私の右耳に息を吹きかけるように問いかけてきた。そのせいで、身体にぞくぞくと甘い痺れが走る。いつもとのギャップがすごい。謙也さんってこんなことできる人なの?!

「あ、の」
「続き明日でええから、水止めて」

 そのまま首筋とうなじにキスを落とされ、思わず声にならない声が出る。さっきまでとは異なる空気に、心臓が跳ねる。急にはじめて出会った時の謙也さんを思い出す。

『その名札の若葉マーク、1年目やろ。俺も4年目やけど、この支店は1年目やし同期やな!よろしゅう頼むわ』

 2年と少し前、あんな爽やかに笑っていた謙也さんと、今目の前にいる色香漂う謙也さんが同一人物とは。

「──すまん、ほんまは風呂入ってからとか思っとったけど、麻衣が可愛すぎて我慢できひん」

 そのまま正面を向かされたかと思ったら、謙也さんのくちびるが私のくちびるに触れる。何度もキスを繰り返すうちに、軽快な音楽とともに”お風呂が沸きました”というアナウンスが遠くから聞こえてきたような気がするけれど、謙也さんの甘いキスに応えるのに精一杯だった私は、そんなアナウンスに対応する余裕はなかった。

Fin.