どのくらいの時間、そうしていたのかはわからない。仁王くんの胸に頭を預けて、ひたすらマサハルの無事を祈っていた。
ふと携帯が鳴る。表示された“お母さん”という名に、私の心臓は早鐘を打つ。
「もしもし!」
『麻衣、マサハルのことだけどね……』
*
「無事で良かった」
「うん……あと数時間遅れてたら死んでたかもしれなかったんだって」
「……お前さんがすぐに異変に気づいたから助かったんじゃろ」
マサハルは尿道結石という病気だったらしい。マサハルは病院で軽い手術を受けたあと、無事に帰ってきた。帰ってくるなりお母さんは、真っ赤に目を腫らした私の隣に立つ仁王くんを見て、軽く微笑んだ。
「仁王くんも、心配してくれてありがとうね。麻衣、ちゃんと仁王くんを駅まで送っていきなさいよ」
そして今、私たちは、駅に向かっている途中なのである。仁王くんの左手と私の右手は、自然と絡められている。そんな手が、突然ぐいっと引っ張られた。
「え、仁王くん、駅に行く道は直進だよ?」
仁王くんを見上げると、仁王くんは、寄り道は嫌いか?と逆に私に訊き返した。
――もう、何でいちいちそんなこと聞くの。
黙ったまま、私は仁王くんが引っ張ろうとしている方向へ一歩踏み出す。仁王くんはそんな私の様子を見て、そのまま歩を進めていく。半歩後ろをついていく私。行き先は特にない。ただ、大通りから外れて、細い中通りに入ると、一気に街は静かになった。暮れかけた空を見上げる。夜が訪れる前の深い青が、瞳から身体の奥に染み込んでいく。
「――今日は、本当にありがとうね」
沈黙に耐えきれなくて、先に言葉を発したのは私のほうだった。仁王くんは、気にしなさんな、とだけ短く答える。そのせいで、すぐに沈黙が戻ってしまった。変な緊張感で、背中がぞわぞわする。
私たちはそのまま、ただ手をつないだまま、閑静な住宅街を歩き続けていた。会話がないせいで、私の頭の中にはさまざまな思考がよぎる。仁王くんは一体、どういうつもりなんだろう。私は仁王くんのことが好きだけれど、仁王くんはここまで思わせぶりなことをしておいて、確信を持てるような言葉は何も言ってこない。もしかして、やっぱり仁王くんは詐欺師で、私が仁王くんに恋をしているのを見て楽しんでいるだけなのだろうか。いや、そんなはずない。そんな人だったら、マサハルのためだけにあんなに走って家まで来てくれるはずない。でも――。
そんなことを考えていると、ふいに、仁王くんが口を開いた。
「――で、あれはスルーか?」
「あれ、って……もしかして、」
「そう。“あれ”じゃ」
仁王くんの指す“あれ”が何のことかわからないほどまで鈍くはなかった。でも、あの台詞は、本気だったのだろうか。気休めに言った台詞ではなかったのだろうか。
――仁王くん、本気で?
そんな台詞が、気づけばぽろっと出てしまっていた。
「でも、マサハルが助かったんなら、俺は必要ないじゃろ」
冗談っぽく笑いながらそういう仁王くんに、一気に心臓が重くなった。
やっぱり、あの台詞は気休めだったんじゃない。
私は、うれしかったのに――うれしいと思ってしまった自分がばかみたい。結局、仁王くんにからかわれていただけだったんだ。
「……冗談なら、そういうこと言わないでよ」
「?」
「冗談で、『そばにいてやるから』とか、そんな思わせぶりなこと言わないで」
悲しいやら、悔しいやら、負の感情が一気に押し寄せて、私の語気は強くなる。繋がれていた手を振り払うように解いた、その瞬間だった。突然後ろから抱き寄せられる感覚に、頭が真っ白になる。
「――本気ぜよ」
「ちょ、仁王くん、ここ住宅街だよ……!」
「どうせ誰も気づかん。それより俺はお前さんの誤解を解きたい」
「へ」
「好きじゃ、支倉」
「え」
え。え。え。思わず振り向くと仁王くんと目が合う。今耳にした台詞が空耳ではないということは、その瞳が物語っていた。
「お前さんが思ってるより、ずっと前から、俺はお前さんを意識しとった」
「……い、いつから?」
「そうじゃのう……まあ、隣の席になったときには、こりゃラッキーだと内心喜んだもんじゃ」
その言葉を皮切りに、あの多くを語らない仁王くんが、ぽつりぽつりと話してくれた。クラスの女子の中でも珍しく仁王くんに全く媚びてこない私を、ずっと、めずらしい物を見るような目で観察していたこと。そのうちに、私のことをもっと知りたいと興味を持ってくれたこと。マサハルの話をするときの私の表情を、ひそかにかわいいと思ってくれていたらしいこと。まさかそんな目で仁王くんが私を見ていたとは知らなくて、一気に頬が熱くなっていく。
「……で、お前さんはどうなんじゃ」
「え、あ、」
仁王くんにそうふられて、はじめて私は仁王くんに告白の返事をしなきゃいけないことを思い出した。――仁王くんがこうして真摯に伝えてくれたのだから、私も勇気を出して、ちゃんと伝えなくちゃ。
「あ、あのね、仁王くん」
「?」
「私、欲張りなのかな……マサハルは助かったけど、でもね、マサハルだけじゃなくて、仁王くんにも、そばにいてほしいと思う」
その言葉に仁王くんは、本当に欲張りじゃな、と笑って、さっき私が振り払ってしまった手にもう一度自分の指を絡めた。少しひんやりした仁王くんの手の温度が、どこか心地よかった。
Fin.