偶然会った友達にいきなり目の前で号泣されては謙也も困るだろうとわかっているのに、涙は止まらない。謙也、ごめんな。ほんまにごめん。謝っても謝り足りない。今こうして困らせていることも、あのとき謙也より筒井くんを信じてしまったことも。「ごめん」を連呼する私に、謙也は自分のモッズコートを脱ぐと、それを私の肩にかけてフードまで被せた。
「――と、……とりあえず、場所、変えよな」
動揺している私を宥めるようにポンとフードの上から私の頭を軽く叩く謙也も、動揺しているように見えた。謙也は私の手を引っ張って人目のない路地裏へと導いていく。ふたりでひとつの傘に入ると狭いはずなのに、謙也の傘に入れてもらってからというもの、私はちっとも濡れていなかった。代わりに謙也の肩がびしょぬれになっている。こういうふうにさりげなく、謙也はやさしい。――いつだって。
*
「……さっきは取り乱してもうてごめん。――せやけど謙也、何でここにおるん」
「へ、」
「ええの? 今日、部活ある日やなかったっけ」
やっと涙が落ち着いた私がそう尋ねると、謙也は「っあー……俺のことはどうでもええねん」と歯切れ悪く答えた。もしかしてうちのせいで部活サボらせてしもたんやろか。でも、まさか、いくら謙也がやさしい言うても、さすがにそこまではせえへんよなぁ。そんなことを考えている間も、謙也はひどく真剣な顔で、きっとぐしゃぐしゃになっているであろう私の顔を容赦なく見つめていた。
「そないなことより――麻衣、聞いてもええか」
「……」
「答えたなかったら言わんでもええ」
「……うん」
「……筒井に、何された?」
謙也のその一言に、私はごくりと唾を飲みこんだ。あのカラオケのときの恐怖を再び思い出し、身の毛がよだつ。思わず自分で自分の身体を抱きしめた。そのままその場にうずくまってしまった私と視線を合わせるように、謙也も地面に片膝をつく。
「麻衣――」
「……謙也の言うた通りやった。カラオケで、筒井くんに襲われてん」
「襲われ、…て、お前……!」
「あ、未遂やから。そのへんは大丈夫」
「……そか。そらほっとしたわ。――何もなかったんやな?」
安堵のため息を漏らした謙也の表情から、緊張の色が消えた。しかし、未遂ではあったけれど、決して『何もなかった』わけではなかった。私のファーストキスは、筒井という最低な男に奪われてしまったのだ。うんともすんとも言わない私の顔を、どないした?と謙也は覗き込む。目を合わせられなくて、思わずうつむき、手で自分のくちびるを擦った。しかし、そんなことをしたって、私が筒井くんにファーストキスを奪われてしまった事実は消えない。
「……ううん。きっと謙也を信じひんかった罰が当たってん。ファーストキス、奪われてもうた」
「……アイツ、マジで今度いっぺんシメたろか」
「あかん! もし謙也が派手な暴力沙汰なんか起こしたら、テニス部、今度の大会出られへんよ?」
「そ、そらそうやけど……」
「――それに、筒井くんにあんな風にされんかったら、うち、アホやからきっと一生気ぃつかんかったかもしれへん」
ここまで口にした時点で、胸がいっぱいになってしまった。言葉よりも感情が押し寄せてきて、一旦引っ込んだはずの涙によって再び私の視界はぼやけていく。と同時に、途端に怖くなった。身体が震える。
謙也はやさしいからこうして今でも私の面倒を見てくれているけれど、謙也にひどいことばかりをしてきた私を、謙也がまだ好きでいてくれているかどうかの保証はない。せやけど――これは、伝えなあかん。
「――謙也は、もううちのこと、恋愛対象として思えんようになっとるかもしれん。せやけど……やっと気づいてん。謙也に告白された日から、ずっとずっと謙也のことしか考えられへんねん。筒井くんとのデートのときも、キスされそうになったときも、ずっと、ほんまにずっと、頭の片隅に謙也が居ってん。なぁ、謙也、うち……謙也のこと、……」
す き 。
その二文字は謙也の胸のあたりに吸い込まれていった。謙也に抱きしめられるのは2回目だ。急に抱きよせられた勢いで、コートのフードが脱げて元の位置へ戻る。
「……ドアホ」
「へ……」
「――そんな二日三日でお前のこと恋愛対象として思えんようになれるほど器用な奴ちゃうで、俺」
「っ……あはは、そやね。謙也不器用やもんね」
「……おい、そこで笑うなや…!」
本当ならもっとロマンチックな展開になっても良さそうなのに、やっぱり私と謙也は、私と謙也のままだった。さっきまでの震えはいつの間にか止まっている。目にたまった涙がこぼれおちるのを見られたくなくて、謙也の肩に顔を埋めた。
「謙也」
「ん?」
「――ありがとう」
*
「……なあ、謙也、2つ、質問してもええ?」
「ん?ええけど……トッピング、パラパラ落としすぎやで」
「え?ああああほんまや、勿体ない…!」
相変わらずのミスド、向かいでゴールデンチョコレートを食べていた麻衣は慌ててそれを皿の上に戻す。俺はそんな麻衣をよそに3杯目のコーヒーの入ったカップに手を伸ばした。おかわり自由とか、サービス良すぎやろ。
「で、質問て?」
「……まず1つめ。うちが筒井くんとデート行った日、結局何で謙也、街におったん?部活は?」
思わず飲みかけていたコーヒーを吹きそうになった。
「ちょ…それ、どうしても知りたいん?」
「せやかて気になるやん。あんな絶妙なタイミングで会えるなんて漫画みたいやったし……」
「――世の中、聞かんほうがええこともあると思うで」
「え、何それ、余計気になる」
「………」
「言うてくれへんの?」
麻衣は少しさびしそうな顔をして俺の顔を見つめる。
ちょ、お前、その顔反則やろ…!あー…ほんまはずっと隠しとこ思ててんけどな……。
「……絶対ひかんて約束できるか?」
「うん。約束する」
「……俺な、あの日、ほんまは部活サボって麻衣のことずっとつけててん」
「え?!」
「平たく言うたらストーカーや。まぁ、さすがにカラオケの中までは入れんかってんけど……」
「え、嘘や、全然気づかへんかった」
「……そら、気づかれんようにしとったからな」
白石に言われたことを実践しようとした結果、俺には麻衣を尾行する以外のアイデアが浮かばなかった。もし筒井が怪しい行動をとろうものなら、すぐにでも介入してやろうと思っていた。ただ、俺が麻衣をつけている間、筒井は麻衣に対して変な行動を起こさなかった。
「そうやったんや……。うちのせいで部活サボらせてしもてごめん。白石くんに怒られへんかった?」
「家帰って携帯見たら、それはそれは有り難いお叱りのメールがきとったわ」
「あはは」
「――っちゅうワケや。ストーカーとかほんま自分で自分がキモイわ……」
「なんで?嬉しいで。謙也がそれだけ心配してくれとったっちゅうことやもん」
けろっとそう言ってのける麻衣に、思わず自分の体温が上昇していくのがわかった。そんな俺の様子を見て、「謙也、顔赤い」と、麻衣は面白そうに笑っている。悔しくなって、麻衣の2つめの質問を促した。
「で、質問の2つめって何やねん」
「謙也、何か欲しいもんある?」
「は? そらまた唐突やな」
「いや、だって、もう少しで謙也、誕生日やんか」
言われて気がついた。もう2月も終わりに近づいている。17歳の誕生日までは、あと1か月を切っていた。が、まさか自分でも忘れかけていた誕生日を、麻衣が覚えていてくれたとは。
「……うわ、すまん、普通に感動した」
「あはは、感動て。彼氏の誕生日くらい彼女やったら普通覚えてるもんやろ。で、欲しいもん、ある?」
「え?」
「あ、言うとくけど家とか土地とか実現不可能なモンはナシやで?」
「アホか!誕生日に不動産もらってどないすんねん。贈与税かかるわ」
何やろな、欲しいもん……新しいシューズ、は値ぇ張るしな……。意外と思いつかないものだ。考え込む俺を、麻衣は相変わらずゴールデンチョコレートを食べながらにこにこと見つめている。その口元に、例のぽろぽろとしたトッピングがついていて、ふと彼女の口元に目がいった。グロスを塗っているわけでもないのに、ぷるんとしたくちびるが、俺を誘惑する。って、何を不埒なことを考えとんねん俺は!
実は、まだ、麻衣とはキスをしたことがなかった。あの日彼女は、筒井にファーストキスを奪われた、と言った。きっと麻衣にとってキスに良い思い出はない。もしかしたら、トラウマにでもなってしまったかもしれない。もしかしたら、キスをすることで彼女が傷つくのかもしれない。そう考えると簡単に彼女にキスなんてできなかった。
しかし、あの日からもう1か月以上が経過している。今日だって、麻衣は自分からあの日の話題をふってきた。そして3月17日は俺の誕生日。……これは、言うてみる価値あるんちゃうか?
「麻衣」
「ん?」
「……欲しいもん、ちゅうか……物ちゃうけど――」
「何?」
「――誕生日、キス、させてくれへん?」
―― 一瞬の沈黙。
そして、次の瞬間、耳までゆでだこのように赤くなった麻衣は、きょろきょろと周りを見渡して、最後に怒ったように俺をにらみつける。
「け、謙也のあほ、場所考えてや……!他の人に聞こえてたらどないすんねん……」
「あ、す、すまん……!」
せや、ここミスドやった…!
失敗した、と後悔しても、時すでに遅し。隣の席で1人で本を読んでいるOLさんらしき人は、絶対俺の台詞が聞こえているはずなのに何事もなかったかのように本を読み続けている。――ああああそやって知らんフリされるほうが恥ずかしいっちゅーねん……!そんなふうに、俺も俺で焦っていたからかもしれない。
「……ええよ」
そんな、麻衣の小さな呟きを聞き逃してしまった。
「へ?」
「ええよ言うてんねん!耳掃除しいや、あほ謙也!あー恥ずかしっ。もうこの話終いやっ」
よほど恥ずかしかったのか麻衣は投げやりにそう言うと、残っていたゴールデンチョコレートを一気に口の中に押し込んだ。
――うわ、あかんどないしよ、俺、今めっちゃしあわせかもしれへん。
にやけそうになる顔をごまかそうと、俺も、カップに残ったコーヒーを一気飲みした。
Fin.