恋のはじまり

 夏休み明け、始業式で、男子テニス部が全国優勝したと報告があった。壇上で部長の手塚くんが簡単なスピーチする中、後ろで楽しそうに笑ってVサインをしているこのおちゃらけた男子が、私がなぜか想いを寄せることになってしまった菊丸英二だ。

 英二と知り合ったのは3年6組で同じクラスになってからだ。なのにこの数ヶ月で英二と私はすっかり親友になってしまっていた。何がきっかけでこんなに仲良くなったのかなんてもう思い出せない。強いて言えば、調理実習で班が同じだったからかなあ?英二はとてもフレンドリーな性格で友達も多いし、顔がカッコいいのとテニスが強いのもあって、女の子にもモテていた。ただ、そんな英二にあまり媚びずに同じ人間としてフラットに友人関係を築いていたのが逆に功を奏したのか、私は英二に懐かれた。そんな様子をやはり同じクラスでテニス部の不二は笑って眺めて、「支倉は随分大きい猫の飼い主になったみたいだね」なんて揶揄された。

 ただ、この夏休み中、英二に対する感情に変化があった。毎日のようにLINEで連絡は取り合ってはいたのだけれど、関東大会が終わった頃だろうか。
 『関東大会優勝だよん!』と、いつものテンションでLINEが来たので、『おめでとう』と返したところ、その晩、英二から電話が来た。家族がいる場所で電話に出るのは何だか恥ずかしくて、慌てて自分の部屋へ移動した。この時点で、ただの友達からの電話なのに何でこんなに動揺しているのだろう、とは自分で自分に突っ込みたくなったのだけれど。

「もしもし?」
『俺。菊丸だけど』

 数日ぶりに聞いた電話越しの英二の声は、やけに大人びて聞こえて、その瞬間自分の脈が速くなったのを感じた。

『次。全国大会、応援来てくんないかな』
「え?」
『今日試合してて――やっぱり麻衣に応援してほしいって思ったんだよね。中学最後の大会だし』
「いつどこでやるんだったっけ?」
『8月下旬に有明』
「それなら行けると思うけど」
『っしゃ。じゃ、約束な』

 そんなわけで8月下旬は、有明テニスの森まで全国大会を応援しに行った。実は英二のテニスを見たのはこれが初めてだった。私にとって菊丸英二はクラスメイトだったから、テニス部レギュラーとしての菊丸英二はとても新鮮に映った。なるほど、これは女の子に人気が出るわけだ。英二のプレースタイルは華やかで、素人の私をも魅了した。何より、テニスに真剣に向き合う英二のその顔つきや醸し出す雰囲気がとても。
 やばいな。と、直感的に思った。英二に感じていた友情が、それ以上のものに変化してしまった。
 ――どうしよう、私は、菊丸英二にすっかり恋をしている。

「麻衣、いっしょに帰ろうぜ!」
「英二、部活は?」
「引退したっての」
「そうだった……ごめん、つい。でも私今日日直だよ」
「知ってる。適当に待ってるよん」

 9月上旬。まだ始業式から数日しか経っていないある日のこと、英二にいっしょに帰ろうと誘われた。そういえば英二と2人で帰るというのははじめてかもしれない。なんだかんだ今まで英二は毎日のように部活で忙しかったし、部活がない日も放課後はジムで自主トレをしていたようだから。
 ペアの男子は今日1日黒板を消すのを頑張ってくれたので、日誌をまとめるのは私の役割だ。放課後、ひとりきりの教室で、今日1日の授業内容などを思い返しながら日誌を埋めていると、不意に目の前に影が落ちてきた。

「まだ終わんないのかにゃ〜」

 わざとらしく語尾に『にゃ〜』なんてつけた英二は私の前の席の椅子に後ろ向きに座る。もう少しで終わりそうだから待ってて、と伝えると、英二は言う。

「じゃあさ、書きながらで良いから俺の話聞いてくんない?」
「いいけど、どうしたの?」
「全国大会来てくれただろ。まず、サンキュな」
「うん、どういたしまして」
「――俺のテニス、どうだった?」

 また唐突な質問を。何で答えたら良いのかわからず一瞬言葉に詰まると、英二はそんな私の様子を見て、言葉を続ける。

「俺さ、夏休み中テニスばっかしてたんだけど」
「うん」
「麻衣が応援してくれたら今までで一番良いプレーできるんじゃないかなって思ったんだよね。だから、全国大会、誘った」

 いつもより少しだけ緊張したような、それでいて真面目な声に、思わず顔を上げた。すると、思ったより近い距離で英二と目が合った。わ、こんな近くで顔見るのも初めてかもしれない。どうしよう、一気に心臓の音がうるさくなっていく。

「……麻衣のことすげー仲良い友達だって思ってたんだけど、夏休み入って直接会えなくなって、そしたらめちゃくちゃ会いたくなったし、麻衣に負けたとこ見られたくないしカッコイイとこ見せたいからテニス頑張ろって思ったんだ」

 え?ちょっと待って。そんなこと言われたら私盛大に勘違いしちゃうんだけど……?日誌どころではなくなって、手がすっかり止まってしまった。

「俺、麻衣にカッコイイとこ見せられた?」
「……うん。テニスしてる英二、かっこよかったよ」
「そっか。じゃあさ、」

 英二も緊張している。私も緊張している。お互いにお互いの気持ちの変化にはきっと気づいていた。けれど、言葉で確認しない限り100%の保証なんてない。

「――俺のこと、好きになった?」

 その聞き方はずるい。英二から告白してくれると思ったのに。でも、それまで英二が紡いでくれた言葉が、間接的に私へ想いを伝えてくれている。緊張のあまり言葉にできず、首を縦にだけ、こくんと振る。

「じゃあさ――青学全国優勝のごほうびに、俺と付き合ってくれませんか」
「えっ」
「麻衣が好きだよ。友達じゃなく、女の子として」

 英二から聞けた『好き』の言葉に、胸が熱くなる。好きな人が、私のことを好きと言ってくれる。こんな奇跡みたいなことが起こるなんて。身体がおかしくなりそうなくらい、今、どきどきしている。

「――ごほうびなんて言わなくても。私、英二の彼女になっていいの……?」

 勇気を出してそう問うと、英二は一瞬目を見開いて、その後大きな声で叫んだ。

「っ、もちろん!やったーーー!!!」
「ちょ、声大きい!誰かに聞こえたら恥ずかしいよ!」
「いいじゃんいいじゃん。幸せだにゃ〜」

 目の前の英二は、緊張が解けたのか、本当に嬉しそうな顔をしてニコニコしているから、思わずこちらまで力が抜けてしまった。

「……日誌の続き書くからもう少しだけ待っててね」
「そーいや、優勝のごほうびじゃなくても麻衣は俺の彼女になるって言ってくれたから、俺、まだ優勝のごほうびもらってないな」
「え?」
「ごほうび、ちょーだい」

 日誌を書くためにペンを持ち直した私の顎に、英二の人差し指がかかり、グイッと顔を正面に向けられた。と思ったら、そのまま英二の真剣な顔が近づいて、くちびるに柔らかい感触があった。え。ちょっと待って――。
 ゆっくりとくちびるが離れてはじめて、私のファーストキスが、彼のごほうびとして軽やかに奪われていったことを認識する。

「……麻衣、すっげー可愛い。大好き」

 突然のことに事態が飲み込めず、驚きと喜びとで涙目の私の顔を見てそう言った英二は、今まで見たどの英二よりも『男の子』を感じさせる大人びた笑顔で笑っている。親友という関係を卒業して、彼とはもう恋人同士なのだ。改めてそう意識せざるを得なかった。

Fin.
2022.1.6