初恋

 サエとは幼馴染で、小さいときからずっといっしょ。サエだけじゃない。バネも、樹っちゃんも、亮も、ダビデも、剣太郎もそう。みんな兄弟みたいに過ごしてきた。
 なのにどうしてだろう。最近サエのことだけ直視できないのは。
 バネとは目を合わせながら会話できる。樹っちゃんから名前を呼ばれても、なあに?って笑顔で振り返ることができる。亮に髪を触られたって、ダビデと回し飲みで間接キスしたって平気だし、剣太郎に「麻衣ちゃん、俺どうしたらモテるんだろう」って相談されても「私は剣太郎のこと好きだから大丈夫だよ」って冗談も軽く言える。
 でも、サエだけは違う。サエのテニスをする姿もなかなか直視できないし、「麻衣」と名前を呼ばれるとなんだかくすぐったいような、恥ずかしいような気持ちになる。いつからこうなったのかはわからないけれど、この気持ちの正体には気付き始めている。ただ、気付いてしまうのが怖くて、見ないふりをしているのだ。

 なのに、どうして今、あえてこの気持ちに対峙させられるような状況にいるのだろう。

 今日は日直だったのに、もう一人の日直の男の子がサボって帰ってしまった。放課後、一人で教室に残り日誌の空白を埋めていると、なぜかテニス部のジャージ姿のサエが教室にやってきた。

「あれ?麻衣ひとりなんだ。シンヤも日直じゃなかったっけ」
「シンヤくん、サボって帰っちゃったみたい。サエこそどうして教室に戻ってきたの?」
「ロッカーに置いてあるタオルを取りに来たんだよ」
「サエが忘れ物なんて、珍しいこともあるんだね」
「いや、俺じゃなくてダビデが忘れたらしくて。だから俺のタオルをあいつに貸して、俺は教室に置いてある予備のタオルを取りに来たってこと」
「そっか、それなら納得」
「だろ」

 サエはそう言いながら、軽く笑った。とは言っても私は彼の顔を見ているわけではない。私の視線は相変わらず日誌に向かったままだ。けれど、声の調子だけで、彼がどのような表情を浮かべているのかがわかってしまう。不意に教室の後ろのロッカーからタオルを取り出す音がした。彼の用件はこれで済んだはずだ。ただ、彼の足音はなぜか教室のドアではなく、私の席へ向かってくる。

「麻衣」
「…な、何?」
「手伝うよ。日直の仕事」
「いいよ、サエ、これから部活でしょ?」
「まぁ、そうだけど。まだ始まるまで15分くらい時間あるからさ」

 サエはそう言うと私の前の席の椅子だけを後ろに向けて、私とちょうど向き合うように座った。意外と距離が近い。

「ここ空欄になってる。3時間目の理科」
「なんかいまいち何したか忘れちゃって。ノートは隣のクラスの友達に貸しちゃってるし…」
「今日は酸化と還元の化学反応式をやったよね」
「あっ、そうだった!ありがとう」

 そうサエに伝えるときに、思わず顔を上げてしまった。すると想像以上の至近距離に彼の顔がそこにあって、目と目が合う。瞬間、胸の奥のほうが反応し、頬が熱くなり、思わず目をそらしてしまう。

「……麻衣、最近俺のほう見ないだろ。俺、何か麻衣にとって嫌われるようなことしたかな」

 そんなサエの言葉が私の意表をついた。まさかそんなことを思わせてしまっていたとは。

「ぜ、全然違うの。ごめんね、なんか不愉快な思いさせちゃって」
「そっか。違うなら良かったけど。麻衣は昔から優しいから、何か思うことがあっても言えないんじゃないかって思って。――ただ、そうは言ってもやっぱりこっち見てくれないのは変わらないか」

 その少し悲しそうな声色にこっちまで悲しくなってくる。私だって本当は前みたいにサエと仲良くしたいし、サエの顔だってちゃんと見たい。なのに、そうしようとすると心臓がざわめく。ずっとずっと親友でいたいのに、どうしてこんな気持ちになってしまったんだろう。まさか、サエのことが、男の子として好きになってしまうなんて。

「――ごめんね、サエ、違うの」
「?」
「サエと、ほんとはちゃんと昔みたいに目を合わせて話したいの。でも今はサエがちゃんと見れない。他のみんなと話す時と、全然違うの。なんで緊張するのかわかんないけど、緊張しちゃうの。サエのこと嫌いなわけじゃないの。それだけはわかってほしい」

 誤解されたままは嫌だ。勇気を出してサエの顔を直視する。数年前まで幼い男の子だったはずのその顔は、いつの間にかすっかり大人びている。そんなサエの顔が、少し照れている。

「――麻衣、それってさ」

 口元に手をやるサエの姿にさっきの自分のセリフを反芻する。
 もしかして、いや、もしかしなくても、私はとても告白に近いようなことを言っていたかもしれない。
 一気にこの場から逃げ出したい私の気持ちを知ってか知らずか、サエは私のペンを持つ右手を自分の左手で抑えて、そして言った。

「――麻衣、俺、麻衣のことが、好きなんだ」
「えっ」
「麻衣が俺と目を合わせてくれなくなるもっと前から、ずっとこの気持ちは変わらないよ。ただ、麻衣は他のみんなとも仲が良いし、俺もそれで居心地が良かったから、逆に気持ちを伝えてギクシャクするのが怖くて言えなかった」

 ――自分に都合の良い妄想?
 目の前のサエが現実のものなのか信じられなくて目を丸くする。サエはそんな私を見て笑う。

「良かった。俺、麻衣に嫌われてたわけじゃなかったんだ」
「それは絶対にないよ!」
「じゃあ、麻衣は俺のことどう思ってる?」
「そ、それは…その、す、すす」

 好きという二文字を伝えるだけなのになかなかどもってしまう情けない私。自分のキャパシティを明らかにオーバーした出来事で混乱して半分涙目だ。サエはそんな私を、ゆっくり見守ってくれている。

「……サエのことが、好きだよ」

 やっとの思いで紡ぎ出したその言葉を聞いたサエは今までに見たことのないくらい幸せそうな顔をしていた。

「なんだ。俺達お互い同じ気持ちだったんだ」
「なんか嬉しいんだけど、それよりびっくりしちゃって何も考えられないよ……」

 そのとき不意に鳴ったチャイムが私たちを現実に引き戻す。

「あっ、サエ、そろそろ部活いいの?」
「そうだった。そろそろ行かないと」

 立ち上がってジャージの上を着直すと、サエは教室のドアへ向かっていく。そしてドアを出る直前、私の方へ振り返って言う。

「麻衣。今日は2人だけで一緒に帰ろう。だからそれまでにびっくりした気持ちは落ち着かせて、嬉しい気持ちになってて」

 いつもはみんなで一緒に帰っていたけれど、そのあえて強調された“2人だけ”という言葉に胸が高鳴る。教室を去る彼の後ろ姿を見ながら、彼との関係が恋人同士に変わったことを実感し、思わず顔がほころんだ。

Fin.
2015.3.1