※「雫をすくうのは」の続きです。
千石は、いつからか、女の子遊びをぱたりと止めた。いつか千石の隣に立っていたケイちゃんもレナちゃんも、今となっては遠い過去の人になってしまった。
「麻衣、帰ろう」
そう千石に促され、私はこくりとうなずく。いつの間にか千石といっしょに帰るのが日課になっていた。それもこれも、千石が特定の彼女をつくらなくなってしまったからだ。
南とのあのことがあってから、千石は部活の話をするときにも極力南については触れなくなった。その代わり、私は東方や後輩の室町くんの情報に詳しくなった。東方は外部の大学を受験することを考えているとか、室町くんの今の彼女は束縛が厳しいとか。そう考えると、それまでの会話の中で、どれだけ南のことが話題に上っていたのかがわかる。
南とのことがあってからの千石は、やさしかった。どうしてこんなにやさしいのかわからないくらい。しかし、その彼のやさしさに毎日触れて、気付いてしまった。――自惚れじゃなければ――彼は、私のことが、好きなのだ。
本当は、千石がいつから女の子と遊ぶのをやめたのか、私は知っていた。
私が、南にふられたあの日以来、千石は中途半端な関係で女の子とつきあうのをやめた。
でも、どうして、こんな私を千石は好きでいてくれているんだろう。楽しい話をして笑わせてくれるたび、やさしい手で触れられるたび、時に真剣な瞳で見つめられるたび、心臓が疼く。あんなに南のことが好きだった私なのに、今では千石に気持ちが揺れ動かされている。あんなに大切にしていた南への恋心が一瞬で消えてしまいそうになる。
――もしかしたら南のことを一途に想っている自分に酔っていたのかもしれない、と、今になって思う。南のことが好きかと問われたら、今なら即答できない。この南への想いを失ってしまうのが怖くて、千石に本気になってしまうのが怖くて。私の心は、いまだ宙ぶらりんのままなのだ。
「……どうしたの?調子悪い?」
「へ?」
「今日の麻衣、なんか元気ないような気がして」
千石は私の顔を覗き込みながら私の額に手をあてた。熱はないみたいだな、と冷静に判断する彼に、申し訳なさを抱く。私が調子の悪そうな顔をしているとしたら、原因は私の心にあるのだ。
「――なんか、ごめんね、別に具合が悪いわけじゃないんだけど」
「……なら、原因はアレかな」
「アレって?」
「南のこと、だろ?」
彼が躊躇なく『南』の名を出したことに私は驚いた。あれだけふたりでいるときに南の話題は避けていたはずなのに。面食らった顔をした私に、千石は作り笑いをして、そのまま私の手を自分の手に絡める。
「場所変えよう。麻衣が元気になりそうな場所、知ってるんだ」
連れてこられたのは、高台にある公園のベンチだった。
「すごーい!近所にこんなところあったんだ!」
「おっ、いい反応。連れてきたかいがあるよ」
いつもの調子で感動する私に千石もいつもの調子で笑う。ベンチに座ると、眼下に夕陽に照らされたオレンジ色の街が見えた。時折、犬を散歩させているおじいさんや、ランニングしている人が目の前を通り過ぎたけれど、それ以外に私たちの話を邪魔するものはない。
左手は、いまだ千石の右手と繋がれたままだった。先に言葉を紡いだのは千石だ。
「――麻衣は、まだ、南が好き?」
「……そこで、『うん』って即答できなくなっちゃった」
訪れる沈黙。――どうしよう、この微妙な空気。そう悩んでいる間に、千石からは2つめの質問が飛び出した。そしてそれは、私の核心をつくものだった。
「じゃあさ。――今は、俺のこと、好き?」
きっと千石には私のこのくだらない悩みなどすべてお見通しなのだろう。繋いでいないほうの手――千石の左手が、私の右頬を撫でる。その感触にどきどきする私がいるのに、私の心のどこかでは、そのどきどきを認めたがらない部分がある。
「――それを認めるのが、怖いの。あんなに南のこと何年も好きだったのに、その気持ちが一気にゼロになっちゃうみたいで……私、本当は一途じゃなくて、流されやすい軽い女だったのかなあって思って」
そう言うと千石は、それは違うよ、と否定する。
「ゼロになんか、なるわけない。麻衣がどれだけ南のことを好きだったか俺は痛いほどよく知ってる。けど、だからといって、終わった恋にいつまでも執着し続けるのも、俺は違うと思う」
「――うん」
「麻衣は前に進んでるだけだよ」
それに俺みたいに素敵な男だったら、どんなに一途な女の子でもすぐ惚れちゃうって!そんないつもの軽口が飛び出して、私は思わず笑ってしまった。
「あはは、やっぱり千石は千石だね」
「おい。どういう意味だよそれ」
そんなことを言いながらも少し大人びた笑顔を浮かべる彼と目があった瞬間、私は彼のことをとっても好きになってしまっていたのだと自覚した。
Fin.