ハンドクリームの話

 部室で日誌を書いていたのだけれど、なんだか手が乾燥する。ハンドクリームを塗ろう。そう思ってジャージのポケットに手を入れたのだけれど、そこは空っぽだ。

「あれ?」

 私、ハンドクリーム、ポケットに入れてなかったっけ?思わず声に出してしまったせいで、近くにいた部長の白石がこっちを振り返る。

「どないしたん?」
「ハンドクリームがないねん。ポケットにしまってたはずやのに……」
「ハンドクリームなぁ。ぱっと見部室の床に落ちてる感じもせえへんし、更衣室とかカバンの中とかちゃうん?」
「あっ、確かに最後に使たの女子更衣室や……」
「これ、使うか?」

 白石がふと私に手渡してきたのは、彼の私物のハンドクリームだ。男子なのにハンドクリーム持ってるなんて女子力高いな。しかもこれ、ロクシタンのやつやん。

「えっ、借りたい。けど白石、こんなええハンドクリーム使てるん?」
「姉ちゃんに適当に買うてきてもろてん」
「へ〜」

 そう言いながら白石から借りたハンドクリームの蓋をクルクルと回して開けて、中身を手のひらに少し出す。そして、蓋を閉めた後、ハンドクリームを手に擦り込ませていく。ふと、私が使っているハンドクリームとは違う香りがふわっと香った。良い香りだ。

「……めっちゃ潤った〜。ほんまにありがとう」

 ハンドクリームを白石に返してお礼を言うと、彼は「どういたしまして」とそれをジャージのポケットにしまう。そんなとき、部室のドアがバーーン!と激しく開いた。このドアの開け方は金ちゃんだ。

「白石ぃ!今日の得意技練習終わったで〜!」
「お疲れさん。金ちゃん、ドアはやさしく開けよな」
「あー!姉ちゃんもおる〜!」

 金ちゃんは白石の小言を無視して(たぶん悪気はない)、そのまま私の方に突進してくる。懐かれるのは有難いのだけれど、懐き方が激しいので、よく「ぐうっ」など変な呻き声が出てしまう。ほら、今も首のあたりを後ろからぎゅっと抱きしめられたけど、ちょっと苦しい。

「……あれ?姉ちゃん、いつもとちゃう」
「え?何が?」
「匂いがちゃうねん」

 私の首から腕を緩めて鼻をスンスンとしながら金ちゃんは言う。

「わかった、姉ちゃんから白石の匂いがするんや!」
「?!」

 えええ?!どういうこと?!動揺する私に白石は言う。

「あー、さっきハンドクリーム貸したばっかやしなぁ」
「な、なるほど。びっくりしたわ……」
「何や、めっちゃ照れてるやん?」

 いやいや、自分から好きな人の匂いするとか言われたら恥ずかしくもなるやん?!顔が紅潮していくのを感じる。白石はそんな私の様子を「可愛えなぁ」なんて本気かどうかわからないことを言って、楽しそうに見ている。そんなとき、財前も部室に戻ってきた。

「あ、財前!お疲れさま」
「財前〜!聞いてな!姉ちゃんから白石の匂いがすんねん〜」

 ?! 金ちゃん?!さっきの話聞いてた?!
 いや、金ちゃんのことや、たぶん話は聞いてへん。でもよりによって財前に言わなくても。あらぬ誤解を招きそうだ。ほら、早速こっちに訝しげな視線を向けている。

「あーあー先輩ら、俺らが真面目に練習しとる中、ナニしとったんすか」
「なっ、財前のあほ、ハンドクリーム借りただけやって」
「へーそうなんやー」
「棒読み……!白石も何か言うてや!変な噂になったらどないするん」
「んー、俺はマネージャーと噂になるんやったら、何も困らへんけど?」

 さらっと白石はそんなことを言うから、また動揺してしまった。

「あれ?姉ちゃん、熱あるん?顔真っ赤やで!」
「き、金ちゃん、あんまりこっち見んといて……」
「……ほんま部長ってそういうトコっすよね」
「外堀から埋めてくのも悪ないやろ?」

 そのうち、謙也や小石川をはじめみんなが部室に戻ってきたので、結局この話題はどこかへ消え去ってしまったけれど、このあと私は自分の両手からハンドクリームの匂いが香るたびにどきどきしてしまう1日を過ごしたのだった。

Fin
2021.12.9