シールド

 放課後新聞部の用事があった俺は、彼女に「先に帰ってええよ」と言った。しかし、彼女はその言葉に頷かず、代わりにこんな質問をした。

「その用事って何時間もかかるん?」
「いや、30分くらいやねんけど」
「ほなら待っててもいいかな」
「そら待っててもらえたらめっちゃ嬉しいけど、無理せんといてな」
「ううん――私が蔵といっしょに帰りたいだけやねん」

 少し頬を染めてそんな可愛らしいことを言う彼女に向かって、それでも先に帰れなんて言えるわけがない。俺はそんな彼女を自分のほうに引き寄せる。

「――かわいい」
「……ちょっ、蔵、ここ教室やで?!」
「ええやん。誰もおらんし」

 そのまま軽く抱きしめて、その額にキスを落とすと、彼女は顔を真っ赤にしながら「教室やのに…」と眉を寄せる。そんな彼女の耳元で、俺は囁く。

「なるべくはよ戻るからええ子にして待ってるんやで」

 そして30分後、俺は、彼女を先に帰さなかったことを後悔することとなる。

「白石くんと別れてや」
「……何で私が蔵ノ介と別れなあかんの」

 教室に戻ろうとドアに手をかけようとした途端、そんな声が聞こえて、踏みとどまる。ドアのガラス越しにと目が合うと、彼女は視線で“入ったらあかん”と訴えた。相手の女子は、ドアのほうに背中を向けているせいか俺の存在には気づいていない。
 それにしても、俺達がつきあいはじめてからもうすぐ半年が経とうとしている。
 ――なのに、まだこないなこと言うやつおったんか。
 そしていつになく強気な彼女の声に、俺はドアとは反対側の廊下の壁に寄りかかりながら目を伏せた。俺達がつきあいはじめてから、こういうことはよくあった。普通ならここでドアを開けて彼女を助けるべきなのかもしれない。一度、実際にそうしたことがある。だが、その時は叱られた。

「気持ちは嬉しいねんけど、蔵は入って来んといて。これは私と相手の女の子の間の問題やねん。蔵に助けられて勝っても意味ないねん。『やっぱり白石くんがおらんと何もできん女や』ってバカにされるだけや」
「せやけど…」
「……蔵には心配かけて申し訳ないけど、私にもプライドがあんねん。せやから、ごめんね?」

 自身がそう考えるのなら、俺が彼女の意向を無視してこれ以上介入するわけにもいかない。それから俺は彼女がこういう状況に陥っても、見ていることしかできなくなった。廊下の壁に寄りかかると、もう、教室内の声ははっきりとは届かない。
 不意にバシンッという大きな音がして、俺の神経はピンと張る。
 ――嫌な予感がする。
 すると、ほどなく教室から言い争いをしていた女子が出てきた。その女子は出てきた瞬間、ドアの外にいた俺の存在に気づくと、何か恐ろしいものでも見たかのように目を丸くして、そのまま走って逃げて行った。
 俺はその女子の背中が小さくなったのを確認して、教室に入る。

「……蔵。新聞部のお仕事お疲れさまでした」

 何事もなかったかのように取り繕う彼女に、そのプライドの高さを改めて認識させられる。いつものように微笑んでいる彼女の頬は、いつもは陶器みたいに白いはずなのに。彼女の赤く腫れた頬を見て、さっきの予感は正しかった、と悟った。
 俺のせいや、と思うと胸が痛む。

「そないなことより……ほっぺ、めっちゃ赤い。冷やすで。保健室行こ」

 彼女の手をとって、教室を出ようとするが、彼女はその場を動こうとしない。

「…?」
「蔵、」
「何?」

 俺は彼女が何を言われたのか知らない。聞こうともしない。聞いたところで彼女が答えてくれるはずもない。ただ、いつもならこんなことがあってもけろっとしているのに、さっきまで微笑みすら浮かべていた麻衣は、いつの間にかくちびるをかんだまま、涙をこらえたまま、ただ視線だけを俺を向ける。

「蔵」
「何?」

「……すき」

 その言葉とともに、彼女が俺の手を握る力が少し強くなる。彼女は自分からそんなことをめったに言わない。

「…ん。俺も、めっちゃ好きやで」

 二度目の抱擁は、一度目とは全く異なるものだった。彼女は俺の腕の中で微かに震えていた。
 ――そない不安にならんでもええ。俺が好きなのは麻衣だけや。
 だが、そんな台詞は口に出すと嘘らしく聞こえることを知っているから、俺はただ黙って、彼女を抱きしめる腕の力を強くした。

Fin.
2010.1.4初稿
2021.11.18一部修正