今日の6時間目を飾る体育の授業は持久走だった。男子は1500m、女子は1000mを、仲良くグラウンドを半分に割って、それぞれ走る。けれど、私は今、ジャージにも着替えず、グラウンドにいるわけでもない。そう、私は今、保健室にいるのだ。
「…よくこんな熱で今まで授業受けてたわね」
「すみません……」
体温計は38度という数値をたたき出していた。本来ならさっさと早退したいところなのだけれど、あいにくうちの両親は共働きで、そして、あいにく私は今日に限って家の鍵を忘れていた。とりあえず先生に母親のパート先に電話をしてもらったけれど、母の仕事が終わるのは午後4時らしい。そこからどれだけ急いで母が私を迎えに来てくれたとしても、15分はかかる。ということは、私は今からあと1時間少し、この保健室に滞在しなければならないのだ。
「あと、支倉さん」
「はい?」
「先生、これからちょっと出て行かなくちゃいけないのよ。本当に申し訳ないけど、何かあったら職員室にいるから、あなたはベッドでゆっくり休んでて」
氷枕や毛布などの最低限の物資を用意してくれた先生は、そのまま保健室を去って行った。私はひとりきりの保健室で、ベッドに横になる。重い身体、重いまぶた。目をつむれば、すぐにでも眠ってしまいそうだった。
本当は熱があることは隠していたかった。けれど、私の異常に気付いたのは謙也で、5時間目と6時間目の間に強制的に保健室に連行されてしまった。確かに朝は微熱程度だと思ったけれど、今はどんどん熱が上がってきている気がする。寒気もするし、やっぱり隠し通すのは無理だったかもしれない。おとなしく私は毛布にくるまった。
それにしてもひとりきりの保健室はとても静かだ。謙也、今頃1500m走っとるんかなぁ。気づけば謙也のことばかり、考えていた。
*
ふと、人の気配で目を覚ます。――先生、戻ってきたん?
うっすらと目を開けると、そこにいたのは先生ではなかった。
「あ、起こしてもた……?」
「え、謙也、なんで……」
謙也のことを考えすぎて幻が現れたのかもしれない。
「今日、男子持久走やってんけど、走り終わった奴から教室戻ってええっちゅーことになってな。せやからさっさと走って着替えて、そのまま保健室直行っちゅーわけや!病気で弱っとるときにひとりきりやったら、さびしいやろ」
そう言いながら、幻かもしれない謙也は、ジャージの入ったバッグを下に置く。
「――それより麻衣、具合は?」
「……そういえばさっきよりはちょっと楽になったかも」
「そか。そらよかったわ。――けど、めっちゃ心配やってんで」
謙也はため息をつきながら、ベッドのへりに腰を下ろす。ベッドが軋んで、やっと目の前の謙也が幻ではなく本物なのだとわかった。
「こない熱あるっちゅーのに、なんで無理して学校来たん?」
少し呆れ顔の謙也は私の顔をのぞきこみながら、私の頬に手を伸ばす。謙也の手はひんやりしていて気持ちいい。そう言うと、「俺の手がひんやりしとるんやなくて、麻衣が熱いんやで」と正論で返された。
「……朝は、微熱程度だと思っててん。せやから、これくらいの熱なら学校休みたないな思て」
「休めばええやんか。休んだ日のノートやったらいくらでも貸すで」
「授業はそうかもしれへんけど……学校休んでもうたら、その日1日、謙也に会われへんやんか」
「―――その台詞、めっちゃ恥ずかしいけど、めっちゃ嬉しいわ」
頬を赤くした謙也を見て、熱に浮かされていた私はやっと、とても恥ずかしいことを言ってしまったということに気づく。
「や、そ、その、今のやっぱりナシ」
「え、何で?!」
「恥ずかしなってきた……」
「あんなぁ……こっちは嬉しい言うとるやん……」
一度恥ずかしいと認識してしまうと、もう、顔を合わせられない。手近にあったふとんをひっぱって、その中にもぐる。
「せやったら、今から俺も恥ずかしいこと言うから、おあいこやで」
「何?」
「……今日1500mで自己新記録出してん」
「へえ、すごい。 けど、何でそれが恥ずかしいことなん?」
「――さっき『病気で弱っとるときにひとりきりやったら、さびしいやろ』とか言うたけど――ほんまはただ、俺がさっさと持久走終わらせて、麻衣に会いたかっただけやねん」
その言葉に私は顔を少しだけふとんから出して謙也を見た。すると、謙也と目が合う。
「えへへ。ほんまおあいこやね」
「……せやな」
「けど、やっぱり、謙也が建前で言うてくれたことも一理あると思う。ひとりきりの保健室もさびしいから」
せやから、来てくれてほんまにありがとう。
そう伝えると、謙也は「アホ、こないなシチュエーションであんまりかわええこと言うたらあかんやろ」と、そっと、私のくちびるをふさいだ。
Fin.
2009.11.22
title by 確かに恋だった