中学から高校に上がる春休みが、私の人生の転機だった。仁王雅治という少年に恋をし、お付き合いを始めることになったからだ。あれからもう何年過ぎ去っただろう、私は社会人二年目、彼は大学院の修士二年。お互いにもう立派な大人になっていた。
まさか初恋がこんなに長い春になるなんて思っていなかったけれど、お互いに家族公認の仲で、将来のことを真剣に考えてもいる。そんなわけで、社会人になるのをきっかけに一人暮らしを始めた私の家に、雅治がよく遊びにくるようになって、そのまま帰らなくなって、私物を持ち込まれて、家賃を半分払ってくれるようになって――。なんだかんだ、私たちは同棲しているような形になっている。
一方で、同棲が始まってから、雅治は何も言わずに姿を消すことが多かった。そういうときは、LINEも既読にならない。最初は何か事故にでも遭ったのか、嫌われるようなことでもしたのか、なんて心配ばかりしていたけれど、それは杞憂で、単純に放浪癖があるのだ、彼は。
初めて彼が姿を消した時、泣きそうな気持ちで帰りを待っていたというのに、帰ってきた彼は呑気に「土産ぜよ」なんて笑って、福岡の明太子を差し出してきた。ああ、でもよく考えたら彼らしい。それからは、雅治がふいにいなくなっても気にしなくなった。またどこかへ行ったのだ、でもきっと一日、二日で帰ってくる。まるで、彼は気まぐれな猫みたいだ。そして私はその気まぐれな猫の飼い主なのだ。
でも、流石に今回は、少し不安になった。雅治が姿を消してから一週間。LINEで何回か「どこにいるの?」などの簡単なメッセージを送ったが、やはり既読にならない。喧嘩したわけでもないから、嫌いになって出て行ったなんてことはあまり考えられない。ということは、事故にでも巻き込まれたのかな……?!そちらの可能性で心配になってくる。もう、なんで連絡してくれないの。せめてLINE、既読にしてよ、雅治のバカ。
雅治が帰ってくるかもわからないのに、土曜日だったのもあって、朝からスーパーで食材を買い込んで、日中は料理に耽ってしまった。テーブルの上に並べたごちそうを眺めていると、虚しさが倍増する。そんなときだ。もうすぐ午後九時を迎えようとする中、ガチャリと家の鍵が外から開く音がした。
「ふぅ、やっと帰れたぜよ」
「ま、雅治――」
やっと帰ってきた。この瞬間を待ち侘びていた。安堵やら怒りやらで渋滞した感情が涙となって、私の視界がゆらゆらする。
「あれ、お姫さん、泣いとるんか?」
「……っ、雅治のバカ!心配したじゃんっ」
「心配かけてすまんかったの。本当は連絡しよう思っとったんじゃけど、スマホ家に忘れて」
「えっ?!」
「一週間放置したから充電も切れとるじゃろうけど。たぶんこのリビングのソファのところに挟まっとるはず」
雅治は、大きなスーツケースを一旦玄関に置いて、そのままコートを脱ぎながら部屋に入る。そしてソファの溝の部分に手を突っ込んで「あった」と呟いた。その手には彼のスマホが。なんだ、本当に忘れてたんだ。
「……どこ行ってたの?」
「アメリカ。国際学会」
「アメリカ?!」
「英語での発表は骨が折れるナリ」
建築科に進んだ彼は、学会などに参加していることもあったが、まさかこんなにフラッと海外に行っているとは思っていなかった。雅治は脱いだコートをソファの背もたれに適当に掛ける。
「ちょっと、コートはちゃんとハンガーに掛けて……」
「後でちゃんと掛けるき、先にこっちじゃ」
「?」
雅治はソファに座ると、そのまま立っている私の手首を掴んで引っ張る。バランスを崩した私は、そのままソファに座っている雅治に向かい合う形で倒れ込む。雅治はそのまま私の背中に優しく腕を回した。
「……充電」
「珍しい。疲れてるの?」
「さすがに学会発表の後の飛行機十数時間は疲れるぜよ」
「確かにそれもそうだね……そうだ、ご飯食べる?」
「食べる。麻衣の作るメシはうまい」
「ありがとう。食べるなら一旦腕解いてくれる?」
「……あと一分」
「――はいはい」
そのまま、雅治の抱きまくらがごとく、私は抱き寄せられた。久しぶりの雅治の匂い、温度に、私の方こそどんどん充電されていく。初めて私を抱きしめた時はまだ少年だった彼も、今はすっかり青年だ。でも、こうして抱きしめられた時の幸福感や安心感は昔も今も変わらない。
およそ一分経過後、雅治は腕を少し緩めたので、彼の太ももの上に座ったまま向かい合う姿勢になる。
「おかえり、雅治」
一週間ぶりの雅治の顔を見ながらそう言うと、雅治は「ただいま」と耳元で囁いて、そのまま私の耳たぶにキスを落とした。
Fin.
2021.12.4