放課後、今日の日直だった白石くんと私が日誌を書いているとき、それは唐突にはじまった。
「ほなら、後は一言ずつ書くだけやんな」
「うん。あ、白石くん先に書いていい……」
よ、という最後の一文字は、ひっく、というあの独特な感覚によって言えなくなってしまった。ふたりきりの教室にしゃっくりの音が響く。
「はは。しゃっくり?」
「うん、そうみたい。うわー恥ずかしい……」
なんて間抜けなしゃっくりなんだろう。他の人ならともかく、片想い中の白石くんに聞かれたのが恥ずかしい。せっかくふたりきりで日直ができてうれしいなあなんて思っていたのに、こんなの最悪だ。
「そんな恥ずかしいもんなん? 男のしゃっくりは別に何とも思わんけど、女の子のしゃっくりってかわいいやん」
「えーそうかなぁ?!恥ずかしいだけだよー………っく」
「あ、また出た」
白石くんは頬杖をついてにこにこしながら、しゃっくりをする私を面白そうに観察する。原因がしゃっくりというのが気に入らないけれど、結果として白石くんに見つめられる形になった私の体温は急上昇していく。いつもこんな調子の私だから、鋭い観察眼を持つ白石くんならきっと私の気持ちに気づいているだろう。それでも、変わらず仲良くしてくれる白石くんに、私は甘えて、そして少しだけ、本当に少しだけだけど、期待してしまうのだ。
もしかしたら、白石くんも私と同じ気持ちでいてくれてるのかもしれない、なんて。
「そういえば、しゃっくりって100回したら死んでまうとかいう迷信あったよなぁ」
「…ひっく、そんな縁起の悪いこと……言わな…っ……いでよー!」
「だいぶ話しにくそうやな?支倉さん、そんなしゃっくり我慢せんでもええんやで?」
「でもやっぱり恥ずかしいもん。……あ、でも、もう止まったかな?――うん、止まったみたい!」
「ほんまぁ?しゃっくりってそんなすぐ止まるもんちゃうと思うねんけどなぁ」
「むっ。白石くん信じてないでしょ。でも、ほら! 今はもう大丈夫だ―――」
ひっく。
その瞬間、もうここから消えたいと思った。
「ほら、言うた通りやろ?」
「………返す…ひっく、……言葉がございません……」
「はは、めっちゃかわええなあ、支倉さん」
白石くんの「かわいい」の基準がよくわからないけれど、白石くんはたまにそんなことをさらっと言ってのけて、そのたびに私にはどきっとする。
しかし、どきどきしたところで、しゃっくりは止まってくれない。
しゃっくりってどうしたら止まるんだっけ?
「そういえばしゃっくりって…30秒くらい息止めたら止まるって言わない?」
「俺もそれ聞いたことあるわ。試しにやってみる価値はあるんちゃう?」
ためしに私は大きく息を吸って、息を止める。しかし、10秒経ったところでさっそくしゃっくりは復活してしまった。
「やっぱりこんなんじゃ止ま…ひっく…んないかぁ……」
意外としぶといしゃっくりは、止まるどころかむしろ、さっきより感覚が短くなってきている気がする。
そんな私に白石くんからこんな提案があった。
「そういえば、水飲むとしゃっくり止まるって言うやんか。ミネラルウォーターやったら持ってるで」
白石くんは鞄からミネラルウォーターの真新しいペットボトルを取り出すと、その青いキャップを取って私に手渡した。
「え、いいの?もらっちゃって」
「もちろん。もう口開けてもうたし、遠慮せんと飲みぃや」
「あ、うん、いただきます……!あとでお金払うね」
「あんなぁ支倉さん。俺、そんなセコないで。お金はいらん」
「でも…!」
「ハイハイ、ええから早よ飲み」
「はいすみま…ひっく…せん……」
ごくごく、と白石くんからもらったお水を飲み込むと、少しのどがすっきりしたような気がした。
「どや?止まった?」
「うーん、まだわかんないけど……でもだいぶいい感じだと思う!」
「そらよかったわ。ほな日誌――」
たぶん、白石くんは「日誌書こか」と言いたかったのだと思う。しかし、その言葉を遮ったのは、やっぱり私のしゃっくりだった。
「んー手強いなあ。水でもアカンかったか」
「……白石くん。せっかくお水もらったのに、ごめんね……」
「そんなん全然ええって。せやけど、息止めてもダメ、水飲んでもダメ、か。残る手段は、驚かせるくらいやんなぁ」
「驚かせる?」
「びっくりしたらしゃっくり止まるって言うやろ?」
それは聞いたことがあるけれど、白石くんに今さらどうやって驚かせてもらえばいいのだろう。突然「わっ」なんて言われても、驚く気がしない。
でもそろそろ、しゃっくりが続きすぎて苦しくなってきた。
「白石くん、…っく、私を驚かす名案とかある?」
「――名案かどうかはわからんけど、一応案はあるで」
「それじゃお願いしてもいいかな?」
白石くんを見上げてそう言うと、白石くんはいつになく真剣な顔で「ほんまにええんやな?」と念を押してきた。
「え? う、うん」
「――ほな、遠慮なくいかせてもらうで」
その白石くんのなんだかいつもとは雰囲気の違う声に、横隔膜ではなく心臓が反応した。え、何この声、こんな白石くんの声はじめて聞いた。鼓膜の奥で心臓の鼓動が聞こえる。耳から絆されそうだ。
条件反射的に白石くんのほうを見上げると、次の瞬間、動揺する私の顎に白石くんの長くてきれいな指が伸びてきて、そのまま顔をくいっと上に向けられる。
え、――嘘。
なんとなく予想はついたけれど、ありえない。
しかし、そのありえないと思っていたことが起こってしまった。
白石くんのくちびるが、私のくちびると重なる。目を閉じるのも忘れた私は、そのまま硬直するしかなかった。
何で、白石くんが、私にキスなんかするの?しゃっくりを止めたかったから――?
しかし、自惚れかもしれないけれど、白石くんとの触れるだけのキスはとてもやさしくて、ただ、しゃっくりを止めるために気まぐれにしたようなものとは思えない。
やっと目を閉じる余裕ができて、私は白石くんとのキスに酔う。どうしよう、今なら私、死んでもいい。
くちびるが離れたあとに続いたしばしの沈黙をを破ったのは、白石くんだった。
「……しゃっくり、止まったなぁ」
「……うん、止まった……けど……」
止まったけど、その驚かせる方法が方法なだけに放心状態だった。
どうしよう、私、白石くんと、き、ききききキス、しちゃったんですけど……!
「支倉さん」
「は、はいっ!?」
「いきなりキスしてもうて、ごめん。せやけど――嫌やなかったやろ?」
悔しいけれど、嫌じゃなかったのは本当だ。
嫌どころか、夢を見ているみたいだった。
「ほんまは受験とか全部終わってから言う予定やってんけどなぁ……支倉さんのせいやで」
「な、」
「しゃっくり出るたびに真っ赤になって恥ずかしがっとるし。やっぱり苦しいせいか自然に涙目になっとるし。そんなかわええ顔されたら、受験終わるまで我慢できひん」
「え……」
「――支倉さんが俺のこと好きでいてくれてるのは気づいててんけど、俺も、ほんまはずっと支倉さんのこと好きやってん――俺と、つきおうてくれませんか?」
そんな白石くんからの告白に、こくん、とやっとの思いで首を縦に振りながら、私はなかなか止まらなかったしゃっくりにはじめて感謝した。
Fin.
2009.12.31初稿
2021.10.10一部修正