「光~ただいま~!」
「声でかいっすわ。今何時やと思っとるんですか」
「…ん~? ごめん、わかんない」
日付が変わるころ、レポートをまとめている最中、バイト先の飲みに出席していた麻衣さんが帰ってきた。すっかり酔いが回って良い気分なのか、明らかに不機嫌そうな俺の声を聞いても、麻衣さんはにへらという笑顔を崩さない。
「でも、光に言われた通り、二次会は出ないで帰ってきたんだよ~?」
「当たり前や。麻衣さん酒弱いし、他人の前で粗相起こして迷惑かけたらどないするん」
「むー。ほめてくれるかと思ったのに……」
麻衣さんは、酒を飲むと退行するタイプだ。今、目の前にいる麻衣さんは、身体は子供、頭脳は大人、という某アニメのフレーズとは真逆で、外見こそは大人だが、中身はまるで小学生を通り越して幼稚園児のようだ。呆れてため息をつくことしかできない俺に、前触れもなく、麻衣さんは抱きついた。反射的に抱きとめるけれど、本当に酔ったときの彼女の行動は、意味がわからない。
「ひかるー…」
「何ですか」
「私、光に会いたいから早く帰ってきたんだよ~?」
「……そーですか。そらどうも」
「えー、光さっきから冷たいよ…!何で? 怒ってる?」
少し悲しそうな顔で俺を見上げた麻衣さんの、その瞼にキスを落としたくなる衝動にかられる。しかし、俺の不機嫌はやはり変わらなかった。彼女のバイト先のカフェの店員には男も多い。麻衣さん自身は否定をするけれど、そのバイト先の同僚の中には彼女を狙っている奴がいるということを、麻衣さんの女友達からこっそり忠告された。だから、本当は気が気ではなかったのだ。レポートを書きながら、何度自分の髪を掻きむしったかわからない。麻衣さんのこの様子ならきっと特に何も起こらなかったのだろうとは思う。だが、腕の中にいる彼女からかすかに漂う煙草の香りが、鼻についた。
彼女は煙草を吸わない。俺も然り。
――俺以外の男の匂い漂わすとか、何やねん、めっちゃ腹立つわ。
「……麻衣さん、煙草くさいすわ。早よシャワー浴びや」
「え、ほんと~? ずっとユースケくん私の隣で煙草吸ってたからなぁ……」
「……ユースケて誰やねん」
「ん?バイト先の後輩の男の子でめちゃくちゃいい子だよ。今日も、アパートの下まで送ってもらっちゃった」
――何やて?送ってもらった?
心の奥底で何やらどす黒いものがもやもやと広がっていく。
麻衣さんから連絡さえあれば、俺が駅にでもどこにでも迎えに行ってやるのに。
「――他の男の話、聞きたないねんけど」
「え、」
衝動的に麻衣さんの口を自分の口でふさぐと、彼女は、んんん!、と何か抵抗したそうに声を出した。
ああもうホンマ腹立つ。何でこない無防備やねん。
ずっと家で麻衣さんのこと考えて心配しとった俺の気持ちなんて、何もわからへんのや。
「ひかる、どうしたの……? もしかして、やきもち?」
「……やきもち、っつーか何つーか……麻衣さん、そのユースケくんとやらに狙われてるん気づいとります?」
「あはは、まっさかぁ」
「まさかやないて。ホンマ、危機感持ってもらわんと、こっちばっかりイライラすんねん」
そう本音をぶつけると、麻衣さんは目を丸くして、そして次の瞬間、極上の笑顔を見せた。
――何でそこで笑うん。ほんま酔っぱらった麻衣さんの行動は意味がわからへん。
「へへ。光、心配してくれてるんだ」
「心配通り越してイライラしとりますわ」
「うれしいなー。けど、そんな心配しなくていいよ?私は光一筋だもん」
――あかん、この人、ほんまにアホや。
「……そういうこととちゃうねん」
「えー?」
「…いや、もう、いいっすわ」
思わずため息が出た。
――あんたがいくら俺一筋でも、向こうは男なんやって。
男女の力の差は歴然としている。もしものことがあったら、きっと麻衣さんの細腕では何も抵抗できない。そういうことを心配しているというのに、彼女はのんきに俺に抱きつく腕の力を強くして、光、せっけんのにおいするー、などとしあわせそうに呟く。
そして、そんな彼女に呆れながらも、さっきの彼女の台詞のせいで心の奥底のどす黒いものがすーっと晴れていく現金な自分にも呆れた。なんだかんだ言って、俺は結局、麻衣さんに首ったけなのだ。
Fin.
2010.2.7