工学部建築学科。工学部の中では女子が多め、とはいえやはり工学部、ほぼ男子ばかりに囲まれた中、大学生活を送っている。高校時代の友達には「えっ、逆ハーレムじゃん!モテそう!選びたい放題!」なんて言われるけど、楽しい思いをしているのはきっと可愛らしい女の子に限った話だ。私みたいないつもほぼすっぴん&パーカーにジーンズ、みたいな女子力低めな女は、もはや異性ということを忘れ去られて、仲間たちとは男同士の友情が芽生えている。
ハタチを過ぎてお酒が飲めるようになってから、仲間内では宅飲みが増えた。外で飲むより安いし、時間も気にしなくて良いし。そんなわけで今日も講義が終わった後、親友のうちの一人に声をかけられた。
「お前今晩空いてる?」
「うん、空いてるよ。バイトもないし」
「よっしゃ。仁王んちで宅飲みやるけど来るだろ?」
「いいね!行く行く!」
「じゃ、七時に仁王んちな。酒とつまみは前にアイツんちで飲んだ時の余りがあるから買って来なくていいってさ」
「オッケー。じゃ七時にね」
こんなことが日常茶飯事だ。自宅から通っている学生が多い中、大学の近くで一人暮らしをしている仁王の家は仲間内で集まる絶好の場所だった。仁王は、基本的にはプライベート空間に他人を入れたがらない性格をしているが、仁王にとって私たちは彼のプライベート空間に足を踏み入れても良いと思ってもらえるくらいには親しかった。
そして、夜七時ちょうど。私は仁王が住んでいるマンションのオートロックの前にいた。みんなもう先に着いてるかな。前の余りがあるとはいえ、さすがに手ぶらはどうかなと思って、みんなの好きそうなお菓子とお酒を適当に少しだけ買ってきた。仁王の部屋番号はもう暗記してしまった。呼び出すと『お前さんか』と仁王の声が聞こえたと同時にオートロックの鍵が開く。そのまま中へ入り仁王の住む階へと移動し、仁王の部屋のインターホンを押す。
「来たよ〜」
そう告げるか告げないかと同時に、内側からドアが開いて、家主が現れた。
「よう来たの。お前さんが一番乗りじゃ」
「えっ、もう七時過ぎてるのに?」
「ま、みんな来るまでゆっくりしんしゃい」
仁王はそう言うと、私が持っていた買い物袋を手からするりと奪って、そのままスタスタと部屋の中へ戻っていくから、私は慌てて靴を脱いで(ちゃんと揃えて)、彼の背中を追った。
仁王の部屋に来るのは初めてではないけれど、よく考えたら仁王の部屋で仁王と二人きりになるのは初めてだった。そう認識した途端、緊張する。なぜって――実は、私は仁王に密かに片想い中だからだ。女として意識されていないのは十二分に理解しているから、告白なんてするつもりは毛頭ないけれど。仁王はモテるくせになぜか彼女がいないから、彼女がいない間くらいは勝手に想いを寄せるくらいさせてもらおうと思っている。
「それにしても、いつもはみんな時間より早く来ることの方が多いのに、変じゃない?LINEしてみよっか」
「お前さん、そんなに俺と二人きりが嫌か」
「えっ?そんなこと言ってないよ」
「なら、良いじゃろ」
キッチンに立つ仁王はお酒とおつまみを手際よく準備をしている。
「何飲む?」
「任せる。仁王の作るお酒美味しいもん」
キッチンには、たくさんのリキュールが並んでいる。なぜか仁王はいつもバーテンダーのような技術でお酒を作ってくれるのだ。バーでバイトでもしているのかな。秘密主義の仁王のプライベートは、知らないことがいっぱいだ。
ソファに座らせてもらうけれど、なんだかそわそわする。いつもは馬鹿みたいにみんなで飲んで騒いでいるこの部屋も、仁王と二人きりだと、とても静かだ。
「できた」
「わ、今回は何?」
「ダーティーマザー」
「初めて聞いた。すごい名前だね……」
「まぁ、名前はともかく、飲んだら美味い」
「そうなんだ、楽しみ」
私の分のカクテルを作り終わった仁王は、そのままテーブルの上にお酒とおつまみを運ぶ。どうやら仁王自身は普通に缶ビールを飲むらしい。
「仁王はビールなんだね」
「この前余ったやつがまだあっての。さて、他の奴らいつ来るかわからんし、先に俺らで飲むか」
「うん」
仁王は2人掛けのソファの空いている方に腰を下ろす。必然的に距離が近くなり、心臓が跳ねたのをバレないように密かに祈った。そのまま私たちは乾杯をして、私は人生初めてのダーティーマザーを口に運ぶ。わ。甘くて美味しい。
「――これ、美味しいね」
「口に合ったなら良かった」
「うん。でも結構度数強い?ビールとかチューハイ飲んだ時と結構違うんだけど……」
「プリッ」
「こら、ごまかさない!」
仁王は結局質問には答えぬまま、楽しそうな笑みを浮かべていた。うわ。絶対これ度数強いんだ。
「チェイサーはちゃんと用意するぜよ」
「頼むよほんとに……みんな来る前につぶれちゃうよ」
掛け時計で時間を確認すると、もう七時二十分を過ぎていた。本当にみんな来る気配ないなぁ。
「ねー仁王、やっぱり私、みんなにLINEしよっか?全員二十分以上遅刻っておかしくない?別に私の誕生日のサプライズ企画してるわけでもないだろうし」
そもそも私の誕生日はまだ先だ。パーカーのポケットからスマホを取り出して、LINEを開こうとすると、隣にいる仁王は意外な一言を発した。
「無駄じゃ」
「?」
「今日は、お前さんしかここには来ない」
「え?だって今日講義の後に誘ってきたのは――」
「アイツは、今頃彼女とデート中。他の奴らはみんな今夜はバイト入っとるはずじゃ」
「はぁ?!」
どういうこと?頭に疑問符しか浮かばない。仁王はそんな私の様子を見てクックッと喉の奥を鳴らしながら笑っている。
「誰かをペテンにかけたのは久しぶりじゃの」
「ペテン?詐欺?」
「昼間お前を飲みに誘ったアイツは、この俺じゃ」
「え?!」
嘘だ。そもそも、アイツと仁王じゃ、髪型も違うし、顔も違うし、声も違う。でも、以前立海出身の友達に聞いたことがある、仁王は中学時代、テニスで全国大会はもちろんのこと世界大会で戦うほどの実力があって、その時の得意技が「イリュージョン」とかいう、他の選手になりきる技だったとかなんだとか。いやいや、でも、テニスの試合ならともかく、こんな日常でイリュージョンしちゃダメでしょうよ、仁王クン。
「おーおーだいぶ混乱してるようじゃのう」
「そりゃ混乱するでしょ!何でそんなまわりくどいことする必要があったのよ」
「お前さんと二人で飲みたいと思ったから」
「えぇ?!何で?ってかそもそもそれなら普通に誘ってくれればいいのに」
「普通に誘ったら面白くないじゃろ」
「そんな理由?!」
色々と驚きすぎて頭が回らない。とりあえず落ち着こう。飲み物を飲もう。目の前には今のところダーティーマザーしかないけど。飲みすぎないように、ちびちびとダーティーマザーをすする。
「……何で、私と二人で飲みたいと思ったの?」
「お前さんとゆっくり話す機会が欲しかった」
「そうなんだ。なんか悩み事でも?」
「んーまぁ、そんなとこじゃ」
「へぇ、仁王も悩むことあるんだね」
「ピヨッ」
「……嘘じゃん、絶対悩んでないよこの人」
漫才みたいな掛け合いが続いているのに、仁王は不意に私をじっと見つめてきたので、思わず息を止めてしまった。その瞳が、私の内面をすべて見抜いているような気がして怖い。どうしよう、私が仁王のことを好きなこと、仁王に全部バレているのではなかろうか。
「悩んどるぜよ。この迷える仔羊仁王クンを救ってくれんかのう」
「……何それ。でも本当に悩んでるならちゃんと話聞くから、茶化さないで教えて?」
そう言うと、仁王は黙ったまま、真剣な表情に変わったから、私も構えた。どうやら彼は、今まで茶化していたけれど、この様子は本当に悩んでいそうだ。
「感情を抑えられないんじゃ」
「……感情を抑えられない?」
「ああ。例えば、お前さんにも怒りたいときに怒るのを我慢したり、泣きたい時に泣くのを我慢した経験があるじゃろ」
「うん。まぁ、あるよね」
「それがなぁ、うまくできん時があっての」
「なるほど。テニスってメンタル面に左右されるスポーツって聞いたことあるけど、テニスやってた仁王にもそういう時があるんだね」
「今までは、ほぼなかったんだがのう。最近特定の感情だけ抑えられなくなってきた」
ふと仁王が、私の右手の上に、その大きな左手を重ねる。少しだけ低めの彼の体温が、手のひら越しに伝わる。え、何、どういうこと?!話が見えない。
「……お前さん、俺のこと、好きじゃろ」
「ふぇっ?!」
あまりに突拍子もなくて、変な声が出てしまった。いや、事実だけれど。ここで縦に首を振って良いものなのか。脳内の情報処理が追いつかないまま、仁王は続ける。
「お前が俺のこと好きになるもっと前から、俺はお前が好きじゃった。じゃけえ、お前さんが3ヶ月前くらいから俺のこと好きになったことにも気づいた」
やばい、当たってる。私が仁王を気になり始めて本格的に好きになったのは3ヶ月前くらいからだ。
「本当はもっと両片想いみたいな時間を楽しもうと思ったんじゃが、あまりにお前さんが可愛いから、少し抑えられなくなってきた」
「かっ、可愛い?!いつもパーカーにジーンズでほぼすっぴんだよ?!」
待って、え、仁王、私のこと好きって言った?!しかも私が仁王を好きになるもっと前から?!そしてこんな時にダーティーマザーのせいでお酒が回ってくるから、本当に勘弁してほしい。ふわふわして、冷静に考えられなくなる。いや、これも含めて全部仁王の緻密に計算されたペテンかもしれない。
「……なぁ、お前さんの口から聞きたい。俺が好きか?」
目の前の仁王は、手を繋いだまま私に問う。心臓の音がうるさ過ぎて、もはや耳の奥からドキドキと音がしている。
「……うん、私も、仁王が好きだよ」
緊張しながらもなんとか捻り出したその言葉に、仁王は目を細める。なんだかその表情が猫みたいで可愛いなと思った矢先のことだ。
「……すまん、我慢できん」
「?」
「想いが通じたら悩みが解決するかと思ったんじゃが、逆じゃった」
「え?」
仁王はそのまま空いているほうの右手を私の顎に当てて、クイっと上に向かせる。次に起こることが予想できてしまい、顔に一気に血がのぼり、頬が熱くなる。
「今日は、キスまでしかせんから安心しんしゃい」
そんな言葉とともに、仁王はその整った顔をそっと近づけ、唇と唇が触れた。「今日は」?「キスまでしかせん」?キスだけでも心臓が爆発しそうなのに、明日以降はどうなってしまうんだろうか。
Fin.
2022.4.9